門前の小僧、『維摩経』を読む 維摩会@春秋館にて参禅ライフ10

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。
それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。


その時、長者の子宝積、此の偈を説きおわって仏に曰して言さく、「世尊、この五百の長者子は、皆すでに阿耨多羅三藐三菩提心を発して、仏国土の清浄を得んことを聞かんと願えり。唯願くは世尊、諸の菩薩の浄土の行を説きたまえ」と。
仏言わく、「善い哉、宝積、すなわち能く諸の菩薩の為に、如来に浄土の行を問えることや。諦(あきらか)に聴け、諦に聴け、善く之を思念せよ、当に汝の為に説くべし」と。
ここに於て宝積及び五百の長者の子、教を受けて聴きぬ。
仏言わく、「宝積よ、衆生の類是れ菩薩の仏土なり。所以いかんとならば、菩薩は所化の衆生に随いて仏土を取り、調伏する所の衆生に随いて仏土を取る。諸の衆生の、いかなる国を以て仏智慧に入るべきかに随いて仏土を取り、諸の衆生の、何(いか)なる国を以て菩薩根(こん)を起すべきかに随いて仏土を取る。所以何んとならば、菩薩の浄国を取るというは、皆諸の衆生を饒益するが為の故なればなり。たとえば、人有りて空地に宮室を造立せんと欲するに、意(こころ)に随いて無礙なるも、若し虚空に於てせんとすれば、終に成ずること能はざるが如し。菩薩も是の如く、衆生を成就せんが為の故に、仏国を取らんと願う。
仏国を取らんと願うは、空に於てするには非ざるなり。宝積、当に知るべし、直心(じきしん)は是れ菩薩の浄土なり、菩薩成仏の諸時へつらわざる、衆生来って其の国に生ぜん。
深心(じんしん)は是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、功徳を具足する衆生来って其の国に生ぜん。
菩提心は是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、大乗の衆生来って其の国に生ぜん。」

お釈迦様の説法が始まります。
衆生のいる、この穢土こそが仏国土であるというのです。菩薩にとっての仏国土というものは、衆生の利益と無関係には成り立たないというお話が説かれているのです。

 

ニューデリー駅(筆者撮影)