門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩會(春秋館)で参禅ライフ29

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来の

すべてに礼拝し奉ります。

それでは、第三章の「弟子品」を、

ご一緒に読んでいきましょう。

 

仏 大迦葉に告げたまわく、

「汝行いて、維摩詰に詣(いた)って疾を問え」と。

迦葉 仏に白(もう)して言(もう)さく、

『世尊、我彼(かしこ)に詣って疾を問うに

堪任(たえ)ず。所以何(ゆえいか)んというに、

憶念するに、我昔貧しき里に於て乞を行じき。

時に維摩詰来って我にいいて言く、

「唯(いい)、大迦葉、慈悲の心有って

而も普きこと能わず、豪富を捨てて

貧に従って乞うとは。

迦葉よ、平等の法に住して、

応に次(ついで)のごとく乞食を行すべし。

不食の為の故に、応に乞食を行すべし。

和合の相を壊(やぶ)らんが為の故に、

応に揣食(たんじき)を取るべし。

不受の為の故に、応に彼の食を受くべし。

空聚の想(おもい)を以て聚落に入れ。

見る所の色は盲と等しく、聞く所の声は

響と等しく、嗅ぐ所の香は風と等しく、

食う所の味は分別せず、諸の触を受くる

こと智証の如く、諸法を知ること幻相の如し。

自性(じしょう)無く、他性無く、

本(もと)より然(も)えされば今にして

則ち滅するちょうことも無し。」

 

次に釈尊は、大迦葉尊者に「維摩尊者の

見舞いに行ってほしい」と依頼されます。

大迦葉尊者は、「頭陀第一」と称えられた

十大弟子のお一人です。

大迦葉尊者は、食べ物を乞うために貧民街に

行った時のことを語り始めます。

大迦葉尊者は、貧しい人たちに徳を積んで

もらおうという気持ちで、貧民街へ托鉢へ

行きました。

しかし、維摩居士から「金持ちの家を避けて、

貧しい人たちの家にばかり行くのは、

慈悲心に偏りがあるからだ。

金持ち、貧乏人の差別をしてはならない」と

諭されてしまいます。

最後の文章にある「自性」とは、

「存在の固定的な実体」のことです。

絶対性です。

私は維摩會で仏教を学んでいます。

本来の仏教の説くところは、「無自性」。

自分自身に絶対性は無い、ということになります。

絶対性の無い自分自身に執着してはならない

ということを維摩會で学んでいます。

ガンジス河(筆者撮影)