門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩會(春秋館)で参禅ライフ28

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、第三章の「弟子品」を、ご一緒に読んでいきましょう。

 

仏大目犍連に告げたまわく、「法行いて、

維摩詰に詣(いた)って疾を問え」と。

目連仏に白(もう)して言(もう)さく、

『世尊、我彼(かしこ)に詣(いた)って

疾を問うにたえず。所以何んというに、

憶念するに、我昔毘耶離の大城(まち)に入り、

まちの中に於て諸の居士の為に法を説きき。

時に維摩詰きたって我に謂いて言く、

「唯、大目連、白衣居士の為に法を説くこと、

当に仁者が所説の如くなるべからず。

夫れ説法とは、当に法の如く説くべし。

法には衆生無し、衆生の垢(けがれ)を離れたるが故に。

法には我有ること無し、我の垢を離れたるが故に。

法には寿命無し、生死を離れたるが故に。

法は相を離れたり、所縁(しょえん)無きが故に。

法には名字無し、言語断ぜるが故に。

法には説有ること無し、覚観(かくかん)を離れたるが故に。

法には形相無し、虚空の如くなるが故に。

法には戯論無し、畢竟空の故に。

法には我所無し、我所を離れたるが故に。

法には分別無し、諸識を離れたるが故に。

法には比(たぐい)有ること無し、相待無きが故に。

法は因に属せず、縁に在らざるが故に。

法は法性(ほうしょう)に同じ、諸法に入るが故に。

法は如(にょ)に随う、随う所無きが故に。

法は実際に住す、諸辺に動ぜざるが故に。

法には動揺無し、六塵に依らざるが故に。

法には去来(こらい)無し、常に住せざるが故に。

法は空に順じ、無相に随い、無作に応ず。

法は好醜を離れ、法は増損無く。

法は生滅無く、法は所帰無し。

法は眼・耳・鼻・舌・身・心を過(こ)えたり。

法には高下無し。法は常住にして動ぜず。

法は一切の観行(かんぎょう)を離る。

唯(いい)、大目連、法相是(かく)の如し、あに説く可けんや。

夫れ法を説く者には、説も無く、示も無し。

の法を聴く者にも聞も無く、得も無し。

譬えば、幻士(げんし)が幻人(げんにん)の為に法を説くが如し。

当に是の意を建てて、為に法を説くべし。

当に衆生の根に利鈍有るを了して、善く知見に於てさわる所無く、

大悲心を以て大乗を讃じ、仏恩を報ぜんと念じて、三宝を断せず、

しかして後に法を説くべし」と。

維摩詰是の法を説ける時、八百の居士、

阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。

我には此の弁無し。

是の故に、彼(かしこ)に詣(いた)って

疾を問うに任(た)えざるなり』と。

 

釈尊から「維摩居士の見舞いに行ってほしい」と

頼まれた目連尊者は、過去に自分が説法をして

いた時のことを語りました。

法は我執を離れ、生死を離れ、かたちもない・・・

かたちなきものをどうして説けるのか、と

維摩居士に詰問されて閉口した、と目連尊者が述べて、

お見舞いを辞退される場面です。

目連尊者はお釈迦様の十大弟子のお一人で、

神通第一と称されたお方です。

漢訳では引用文にもあるように、大目犍連と表記されます。

霊鷲山の頂上にある釈尊が説法された台座(筆者撮影)