門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ13

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

 

 

四摂法は是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、解説所摂の衆生来って

其の国に生ぜん。

 

四摂法(ししょうほう)とは、「四つの(他の人を摂(たす)ける)実践徳目」なので、四摂事(ししょうじ)とも言います。

(1) 布施 (他者に真理を教え、財物を与えること)

(2) 愛語 (他者に慈しみの心・愛情からの言葉をかけること)

(3) 利行 (他者に利益を与えること。他者を助ける行いをすること)

(4) 同事 (他者と歩みを共にすること。人々と同じ仕事をしながら教化していくこと)

以上の4種のことです。

 独りの人間は、周囲の人たちと共に成長していく、ということが実感できる徳目だと 思います。

ヴァイシャーリー(釈尊はこの地で死の予告をされ、最期の旅に向かわれた(筆者撮影)

参考:曹洞宗大本山總持寺ホームページ

   コトバンクホームページ

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ12

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

 

四無量心は是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、慈・悲・喜・捨を成就せる衆生来って其の国に生ぜん。

 

四無量心とは、4つの広い心、計り知れないほどの利他の心を意味します。

①慈無量心:人々の幸福を願い、楽を与えることが無量(限りが無い)であること

②悲無量心:人々の苦しみを自分の苦しみとし、苦から救済することが

      無量(限りが無い)であること

③喜無量心:人々の喜びを自分の喜びとし、他者を妬まず自分のこととして喜ぶことが

      無量(限りが無い)であること

④捨無量心:他者に対する愛着や怨みなどの差別を捨て、平等に他者を利することが

      無量(限りが無い)であること

以上の4つの心を指します。

実践できるよう日々努力致します。

仏教遺跡にいた犬(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ11

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

 

「布施は是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、一切能捨の衆生来って其の国に生ぜん。

持戒は是れ菩薩の浄土なり、菩薩成仏の時、十善道を行ずる満願の衆生来って其の国に生ぜん。  

忍辱は是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、三十二相荘厳の衆生来って其の国に生ぜん。

精進は是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、一切の功徳を勤修する衆生来って其の国に生ぜん。

禅定は是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、心を摂して乱れざる衆生来って其の国に生ぜん。

智慧は是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、正定の衆生来って其の国に生ぜん。」

 

仏教が説く悟りに至るための六つの修行徳目である「六波羅蜜」を説く部分です。

六波羅蜜とは、次の6つを指します。

  • 布施(施しをすること)
  • 持戒(戒律を守って自己反省すること)
  • 忍辱(忍耐すること)
  • 精進(努力の実践)
  • 禅定(心を統一すること)
  • 智慧(悟りの智慧を得ること)

 

私たちは、悟りを得ることを目指して、この6つの徳目を日々、怠ることなく実践していくだけなのだと思います。

 

インドにいたリス(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む 維摩会@春秋館にて参禅ライフ10

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。
それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。


その時、長者の子宝積、此の偈を説きおわって仏に曰して言さく、「世尊、この五百の長者子は、皆すでに阿耨多羅三藐三菩提心を発して、仏国土の清浄を得んことを聞かんと願えり。唯願くは世尊、諸の菩薩の浄土の行を説きたまえ」と。
仏言わく、「善い哉、宝積、すなわち能く諸の菩薩の為に、如来に浄土の行を問えることや。諦(あきらか)に聴け、諦に聴け、善く之を思念せよ、当に汝の為に説くべし」と。
ここに於て宝積及び五百の長者の子、教を受けて聴きぬ。
仏言わく、「宝積よ、衆生の類是れ菩薩の仏土なり。所以いかんとならば、菩薩は所化の衆生に随いて仏土を取り、調伏する所の衆生に随いて仏土を取る。諸の衆生の、いかなる国を以て仏智慧に入るべきかに随いて仏土を取り、諸の衆生の、何(いか)なる国を以て菩薩根(こん)を起すべきかに随いて仏土を取る。所以何んとならば、菩薩の浄国を取るというは、皆諸の衆生を饒益するが為の故なればなり。たとえば、人有りて空地に宮室を造立せんと欲するに、意(こころ)に随いて無礙なるも、若し虚空に於てせんとすれば、終に成ずること能はざるが如し。菩薩も是の如く、衆生を成就せんが為の故に、仏国を取らんと願う。
仏国を取らんと願うは、空に於てするには非ざるなり。宝積、当に知るべし、直心(じきしん)は是れ菩薩の浄土なり、菩薩成仏の諸時へつらわざる、衆生来って其の国に生ぜん。
深心(じんしん)は是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、功徳を具足する衆生来って其の国に生ぜん。
菩提心は是れ菩薩の浄土なり。菩薩成仏の時、大乗の衆生来って其の国に生ぜん。」

お釈迦様の説法が始まります。
衆生のいる、この穢土こそが仏国土であるというのです。菩薩にとっての仏国土というものは、衆生の利益と無関係には成り立たないというお話が説かれているのです。

 

ニューデリー駅(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む 維摩会@春秋館にて参禅ライフ9

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

 


ここに於て長者の子宝積、即ち仏の前に於て、偈を以て頌(とな)えて曰く。

「目は浄くして修広なること青蓮の如く、心は浄くしてすでに諸の禅定をわたり、

久しく浄業を積んでみな無量なり。もろびとを導くに寂を以てしたもう故に

稽首したてまつる。

既に見る大聖神変を以て、普く十方無量の土を現じたまい、その中の諸仏法を

演説したもうを、ここに於て一切悉く見聞す。法王の法力群生に超え、

常に法の財を以て一切に施し、善く諸の法相を分別し第一義に於て動ぜず。

すでに諸法に於て自在を得たまえり。是の故に比の法王を稽首したてまつる。

法有ならず亦無ならず、因縁を以ての故に諸法生ず。

我無く造無く受者無けれども、善悪の業亦亡びずと説きたもう。

始め仏樹に在して力魔を降し甘露の滅を得て覚道を成したまえり。

すでに心意無く受行無し。而も悉く諸の外道を推伏し、三たび法輪を大千に

転じて、其の輪本来常に清浄なり。天人道を得たる、比を証となし、

三宝是に於て世間に現ず。斯の妙法を以て群生を済い、ーたび受けて退せず

常に寂然たり。

老・病・死を度する大医王、当に法海の徳無辺なるを礼すべし。

毀誉に動ぜざること須弥の如く善と不善とに於て等しく慈(いつくしみ)を以て

したもう。

心行の平等なること虚空の如し。たれか人宝を聞いて敬承せざらん。

今世尊に比の微蓋を奉るに、中に於て我が三千界諸天・龍神居る所の

宮の乾婆等及び夜叉を現じ、悉く世間の諸の所有を見たり十カ哀んで

是の化変を現じたもう。

衆は希有なるを観て皆仏を欺じたてまつる。今我も三界の尊に稽首しまつる。

大聖法王は衆の帰する所、心を浄くして仏を観たてまつるに欣ばざるはなし。

おのおの世尊の其の前に在すを見る。斯れ即ち神力不共の法なり。

仏一音を以て法を演説したもうに、衆生その類に随っておのおの解を得、

皆おもえらく世尊其の語を同じゅうしたもうと、斯れ別ち神力不共の法なり。

仏一音を以て法を演説したもうに、衆生各各解(かくかくげ)する所に随うて、普く受行することを得て其の利を獲る。斯れ即ち神力不共の法なり。仏一音を以て法を演説したもうに、或は恐畏する有り或は歓喜するあり。

或は厭離を生じ、或は疑を断ず。

斯れ則ち神力不共の法なり。

十カの大精進を稽首し、既に無所畏を得たまえるな稽首しまつる不共の法に住したまえるを稽首し、一切の大導師たるを稽首しまつる。

能く衆の結縛を断じたまえるを稽首し、已に彼岸に到りたまえるを稽首しまつる。

能く諸の世間を度したまえるを稽首し、永く生死の道を離れたまえるを稽首しまつる。

悉く衆生来去(さまよい)の相(すがた)を知り、善く諸法に於て解脱を得たまえり。

世間に著せざること蓮華の如く、常に善く空寂の行に入る。

諸法の相に達して罣礙無し。空(みそら)の如く所依なきを稽首したてまつる」と。

 


以上が裕福な良家のラトナーカラ(宝積)菩薩が釈尊を讃える偈です。

インド門(ニューデリー

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ8

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

 

又此の三千大千世界の諸の須弥山・雪山・目真隣陀山・摩訶目真隣陀山・香山・

宝山・金山・黒山・鉄囲山・大鉄囲山・大海・江河・川流・泉源及び日・月・

星辰・天宮・龍宮・諸尊神宮・悉く宝蓋の中に現したり。

又十方の諸仏も、諸仏の説法も、亦宝蓋の中に現したり。

その時、一切の大衆、仏の神力を見たてまつりて、未曾有なりと歎じ、

掌を含せて仏を礼し、尊顔をあおぎ見て目暫くもはなさず。

 

「須弥山」とは、仏教宇宙論における世界中心的な巨山のことです。

サンスクリット語でメールMeruまたはスメールSumeruといい、

須弥(しゅみ)や蘇迷盧(そめいろ)と音訳されます。

水をたたえた金輪の中心に立ち、水面上の高さは8万由旬(ゆじゅん)あり、

周囲には同心状に七つの山脈が取り巻くといいます。

最外周の山脈のさらに外には、須弥山の東西南北の方角にあたって一つずつ

大陸があり、そのうち南にあるのが、私たちの住む大陸「贍部洲(せんぶしゅう)」

です。

須弥山には香木が茂り、山腹には四大王天(しだいおうてん)らが住み、

頂上には帝釈天(たいしゃくてん)を首領とする三十三天(忉利天(とうりてん))らが

住むといいます。

参考資料:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)、

     「新仏教辞典」(中村元監修、誠信書房

ヴァイシャーリーにある沐浴池(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ7

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

 

その時、仏、無量何千の衆(ひとびと)の与(ため)に恭敬し囲にょうせられて、

為(ため)に説法し給う。あたかも須弥山王の大海に顕(あらわ)るるが如く、


衆宝の、師子座に安処して、一切諸来の大衆を蔽いたまえり。

その時、毘那離の城に最者の子有り、名けて宝積という。

五百の長者の子と倶に、七宝の蓋を持して仏のみもとに来詣で、

頭面に足を礼し、各々其の蓋を以て、共に仏に供養したてまつる。

仏の威神、諸の宝蓋をして合して一蓋と成さしめ、遍く三千大千世界を覆い、

而も比の世界の広長の相悉く中に於て現じたり。

 

「毘那離」(びやり)とは、インドのヴァイシャーリーのことです。

釈尊が御在世の時代、北インドには16もの大国(マガダ、コーサラなど)が

あって、商業都市・ヴァイシャーリーはリッチヴィ族の首都でした。

現在のヴァイシャーリーには、アショーカ王の石柱やストゥーパが建っていて、

仏跡として知られています。

下の写真をご覧ください。

ヴァイシャーリーのアショーカ王の石柱(筆者撮影)