門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩會(春秋館)で参禅ライフ31

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、第三章の「弟子品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

 

仏、須菩提に告げたまわく、「汝行いて、維摩詰に詣って疾を問え」と。

須菩提仏に白して言さく、『世尊、我彼(かしこ)に詣って疾を問うに

堪任(たえ)ず。所以何(ゆえいか)んというに、憶念するに、我昔

其(それ)の舎(や)に入りて、従いて食を乞えり。時に維摩詰我が鉢を

取りて飯を盛り満し、我に謂いて言く、「唯、須菩提、若し能く食に

於て等しき者は、諸法も亦等し。諸法等しき者は、食に於ても亦等し。

是の如くにして乞を行し、乃(すなわ)ち食を取る可し。」

 

次に、釈尊須菩提尊者に「お見舞いに行ってほしい」と

依頼されます。

須菩提尊者は、空(くう)の理解が深い方で、「解空第一」と

称えられています。

他人と争うことがなかったので、「無諍(むじょう)第一」

ともいわれます。

父のスマナの兄・アナータピンディカ (給孤独長者)は、

釈尊祇園精舎を寄進しました。叔父が祇園精舎釈尊

寄進した時、須菩提尊者も釈尊の説法を聞いて深く心を動かされ、

釈尊の弟子となったと伝えられています。

 

釈尊が悟りを開かれた後、初めて説法された鹿野苑にある初転法輪寺(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩會(春秋館)で参禅ライフ30

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、第三章の「弟子品」を、ご一緒に読んでいきましょう。

 

釈尊から病気になった維摩居士のところへお見舞いに

行くように頼まれた迦葉尊者の回想が続きます。

 

「迦葉よ、若し能く八邪を捨てずして八解脱(はちげだつ)に入り、

邪相を以て正法に入り、一食を以て一切に施し、諸仏及び衆の賢聖供養し、

然(しか)る後に食すべし。

是(かく)の如くにして食する者は、煩悩有るに非(あら)ず、

煩悩を離るるに非ず、定意に入るに非ず、定意を起つに非ず、

世間に住するに非ず、涅槃に住するに非ず。

其の施有る者も大福無く、小福無く、益ともなさず、損ともなさず。

是を、正に仏道に入りて聲聞に依らずと為す。迦葉よ、若しかくの如く

食せば、空しく人の施(せ)を食せずとなす」と。

時に我、世尊、是の語を説くを聞いて未曾有(みぞう)を得、

即ち一切の菩薩に於て深く敬心(きょうしん)を起しき。

復(また)是の念を作(な)さく、「これ、家名有りて、弁才・智慧乃ち

能くかくの如し。

其れ、誰か此を聞きて、阿耨多羅三藐三菩提心を発さざらんや」と。

我是(それ)より来(このかた)、復(また)人に勤むるに声聞・辟支仏行を

以てせざるなり。

この故に、彼に詣(いた)って疾を問うに仕(た)えず』と。

 

「八邪」とは、八正道の反対である八つの誤り(邪見・邪思惟・

邪語・邪業・邪命・邪方便・邪念・邪定)のことです。

八正道とは、仏教の修行の基本となる八つの実践徳目をいいます。

それは、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定を

いいます。

迦葉尊者も維摩居士のところへお見舞いに行くことをためらい、

断ってしまいました。

 

インドで見た夕陽(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩會(春秋館)で参禅ライフ29

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来の

すべてに礼拝し奉ります。

それでは、第三章の「弟子品」を、

ご一緒に読んでいきましょう。

 

仏 大迦葉に告げたまわく、

「汝行いて、維摩詰に詣(いた)って疾を問え」と。

迦葉 仏に白(もう)して言(もう)さく、

『世尊、我彼(かしこ)に詣って疾を問うに

堪任(たえ)ず。所以何(ゆえいか)んというに、

憶念するに、我昔貧しき里に於て乞を行じき。

時に維摩詰来って我にいいて言く、

「唯(いい)、大迦葉、慈悲の心有って

而も普きこと能わず、豪富を捨てて

貧に従って乞うとは。

迦葉よ、平等の法に住して、

応に次(ついで)のごとく乞食を行すべし。

不食の為の故に、応に乞食を行すべし。

和合の相を壊(やぶ)らんが為の故に、

応に揣食(たんじき)を取るべし。

不受の為の故に、応に彼の食を受くべし。

空聚の想(おもい)を以て聚落に入れ。

見る所の色は盲と等しく、聞く所の声は

響と等しく、嗅ぐ所の香は風と等しく、

食う所の味は分別せず、諸の触を受くる

こと智証の如く、諸法を知ること幻相の如し。

自性(じしょう)無く、他性無く、

本(もと)より然(も)えされば今にして

則ち滅するちょうことも無し。」

 

次に釈尊は、大迦葉尊者に「維摩尊者の

見舞いに行ってほしい」と依頼されます。

大迦葉尊者は、「頭陀第一」と称えられた

十大弟子のお一人です。

大迦葉尊者は、食べ物を乞うために貧民街に

行った時のことを語り始めます。

大迦葉尊者は、貧しい人たちに徳を積んで

もらおうという気持ちで、貧民街へ托鉢へ

行きました。

しかし、維摩居士から「金持ちの家を避けて、

貧しい人たちの家にばかり行くのは、

慈悲心に偏りがあるからだ。

金持ち、貧乏人の差別をしてはならない」と

諭されてしまいます。

最後の文章にある「自性」とは、

「存在の固定的な実体」のことです。

絶対性です。

私は維摩會で仏教を学んでいます。

本来の仏教の説くところは、「無自性」。

自分自身に絶対性は無い、ということになります。

絶対性の無い自分自身に執着してはならない

ということを維摩會で学んでいます。

ガンジス河(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩會(春秋館)で参禅ライフ28

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、第三章の「弟子品」を、ご一緒に読んでいきましょう。

 

仏大目犍連に告げたまわく、「法行いて、

維摩詰に詣(いた)って疾を問え」と。

目連仏に白(もう)して言(もう)さく、

『世尊、我彼(かしこ)に詣(いた)って

疾を問うにたえず。所以何んというに、

憶念するに、我昔毘耶離の大城(まち)に入り、

まちの中に於て諸の居士の為に法を説きき。

時に維摩詰きたって我に謂いて言く、

「唯、大目連、白衣居士の為に法を説くこと、

当に仁者が所説の如くなるべからず。

夫れ説法とは、当に法の如く説くべし。

法には衆生無し、衆生の垢(けがれ)を離れたるが故に。

法には我有ること無し、我の垢を離れたるが故に。

法には寿命無し、生死を離れたるが故に。

法は相を離れたり、所縁(しょえん)無きが故に。

法には名字無し、言語断ぜるが故に。

法には説有ること無し、覚観(かくかん)を離れたるが故に。

法には形相無し、虚空の如くなるが故に。

法には戯論無し、畢竟空の故に。

法には我所無し、我所を離れたるが故に。

法には分別無し、諸識を離れたるが故に。

法には比(たぐい)有ること無し、相待無きが故に。

法は因に属せず、縁に在らざるが故に。

法は法性(ほうしょう)に同じ、諸法に入るが故に。

法は如(にょ)に随う、随う所無きが故に。

法は実際に住す、諸辺に動ぜざるが故に。

法には動揺無し、六塵に依らざるが故に。

法には去来(こらい)無し、常に住せざるが故に。

法は空に順じ、無相に随い、無作に応ず。

法は好醜を離れ、法は増損無く。

法は生滅無く、法は所帰無し。

法は眼・耳・鼻・舌・身・心を過(こ)えたり。

法には高下無し。法は常住にして動ぜず。

法は一切の観行(かんぎょう)を離る。

唯(いい)、大目連、法相是(かく)の如し、あに説く可けんや。

夫れ法を説く者には、説も無く、示も無し。

の法を聴く者にも聞も無く、得も無し。

譬えば、幻士(げんし)が幻人(げんにん)の為に法を説くが如し。

当に是の意を建てて、為に法を説くべし。

当に衆生の根に利鈍有るを了して、善く知見に於てさわる所無く、

大悲心を以て大乗を讃じ、仏恩を報ぜんと念じて、三宝を断せず、

しかして後に法を説くべし」と。

維摩詰是の法を説ける時、八百の居士、

阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。

我には此の弁無し。

是の故に、彼(かしこ)に詣(いた)って

疾を問うに任(た)えざるなり』と。

 

釈尊から「維摩居士の見舞いに行ってほしい」と

頼まれた目連尊者は、過去に自分が説法をして

いた時のことを語りました。

法は我執を離れ、生死を離れ、かたちもない・・・

かたちなきものをどうして説けるのか、と

維摩居士に詰問されて閉口した、と目連尊者が述べて、

お見舞いを辞退される場面です。

目連尊者はお釈迦様の十大弟子のお一人で、

神通第一と称されたお方です。

漢訳では引用文にもあるように、大目犍連と表記されます。

霊鷲山の頂上にある釈尊が説法された台座(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩會(春秋館)で参禅ライフ27

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、今回から第三章の「弟子品」を、ご一緒に読んでいきましょう。

 

その時、長者・維摩詰自ら念(おも)えらく、

「われ疾(やまい)の床に寝ぬ、世尊の大慈なんぞ

あわれみを垂れたまわざらんや」と。 

仏その意を知しめして、即ち舎利弟に告げたまわく、

「法行いて、維摩詰に詣(いた)りて疾(やまい)を問え」と。

舎利弗仏にもうしてもうさく、『世尊、我彼(われかしこ)に

詣って疾を問うにたえず。ゆえいかんというに、

憶念するに、我むかしかつて林中に於て樹下に宴坐しき。

時に維摩詰来って我に謂いて言わく、

「唯(いい)、舎利弗、必ずしも是れ坐するをもって

宴坐とはなさず。夫れ宴坐とは、三界に於て身と意とを

現ぜざる、是を宴坐となす。滅定より起(た)たずして而も

諸の威儀を現ずる、これを宴坐となす。道法を捨てずして

而も凡夫の事を現ずる、これ宴坐となす。心内に住せず、

また外に在らざる、足を宴坐となす。諸見に於て動ぜずして、

三十七品を修行する、是を宴坐となす。煩悩を断ぜずして

涅槃に入る、是を宴坐となす。

もし能くかくの如くにして坐する者ならば、

仏の印可したもう所ぞ」と。

時に我、世尊、是の語を説くを聞き、黙然として止みて、

報(こたえ)を加うること能わざりき。故に我彼(かしこ)に

詣(いた)って疾を問うに任(た)えず』と。

 

釈尊が、舎利弗尊者に「維摩居士の見舞いに行くように」と

依頼する場面です。

しかし、舎利弗尊者は座禅をしている時に、次のように

指摘されて返す言葉もなかったので、自分にはお見舞いに

行く能力はありません、と辞退されます。

『あなたがやっているような座禅のやり方で、

座禅は修行すべきものではありません。

真の座禅は、身体も心も三界の中にあらわれないように

座禅すべきものです。滅尽定に入ったままで、

しかも行・住・坐・臥があらわれているような座禅をしなさい。

すでに獲得した聖者としての姿を捨てない状態で、

しかも俗人の性格をもあらわす、というように座禅をしなさい。

あなたの心が、内にも外にもない、というように座禅をしなさい。

あらゆる謬見を捨てない状態で、しかも三十七菩提分の上にも

姿をあらわす、というように座禅をしなさい。

煩悩を断たない状態で、涅槃に入る、というように座禅をしなさい』

(『維摩経』長尾雅人訳注、中公文庫を参照)

 

煩悩を捨てることが出来たら、菩提に達するというのが

一般的な考え方かと思います。

しかし、「煩悩即菩提」といって、煩悩と菩提の本体はいずれも

真如であって、真理の観点からすると煩悩こそがそのまま菩提に

ほかならないという仏教用語があります。

なかなか実感として感じるのは、難しいです。

維摩會で修行研鑽を重ねて、これを悟れるよう

努力したいと思います。

霊鷲山にある阿難尊者たちが瞑想したと伝わる洞窟(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩會(春秋館)で参禅ライフ26

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、第二章の「方便品」を、ご一緒に読んでいきましょう。

今回で、第二章の「方便品」の最後になります。

 

維摩居士の説法の続きです。

「かくの如きの無量清浄の法より如来の身を生す。

 諸の仁者(ひとびと)よ、仏身を得て一切衆生の病を

 断ぜんと欲せば、まさに阿耨多羅三藐三菩提心

 発すべし」と。

 かくの如く、長者維摩詰は、諸の疾を問う者の為に、

 応(かた)の如く法を説きて、無数千人をして皆

 阿耨多羅三藐三菩提心を発さしめき。

 

 

阿耨多羅三藐三菩提とは、サンスクリット語

anuttara-samyak-sambodhi(アヌッタラー・

サムヤク・サンボーディ)を音写したものです。

アヌッタラー(無上の)・サムヤク(正しい、完全な)・

サンボーディ(悟り)…がそれぞれの意味で、

無上正等覚などと訳されます。

このうえなく完全なる悟りの智慧…といった意味になります。

第二章「方便品」のクライマックスで、

維摩居士は「悟りに向かって発心するように!」と

おっしゃったのです。

煩悩に覆われた曇り空であっても、その奥には

光り輝く太陽(仏性)が、必ずあります。

その太陽を求めて、私は維摩會で勤行し続けます。

霊鷲山で見た太陽(筆者撮影)

 

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ25

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、第二章の「方便品」を、ご一緒に読んでいきましょう。

 

維摩詰の説法の続きになります。

「諸の仁者(ひとびと)よ、こはいとう可きものなれば、

 当に仏身を楽(ねが)うべし。所以何(ゆえいか)んというに、

 仏身とは即ち法身(ほうしん)なり。無量の功徳智慧より生じ、

 戒・定・慧・解脱・知見より生じ、慈・悲・喜・捨より生じ、

 布施・持戒・忍辱柔和・勤行精進・禅定解脱三昧・多聞智慧

 諸波羅蜜より生じ、方便より生じ、六通(ろくつう)より生じ、

 三明(みょう)より生じ、三十七道品より生じ、止・観より生じ、

 十カ・四無所畏・十八不共法より生じ、一切不善法を断じて、

 一切善法を集むるより生じ、真実より生じ、不放逸より生す。」

 

六通と三明は、仏教用語で「三明六通」とよくいわれます。

三明は過去・現在・未来にかかわる智慧で、六通は

それに天耳通、他心通、神足通の三つを加えたものです。

三十七道品」は、三十七菩提分法ともいいます。

悟りを得るための三七種類の実践修行方法のことです。

四念処、四正道、四如意足、五根、五力、七寛支、八正道

いいます。

 

(参考資料:コトバンクほか)

インドで見たリス(筆者撮影)