門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩會(春秋館)で参禅ライフ27

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、今回から第三章の「弟子品」を、ご一緒に読んでいきましょう。

 

その時、長者・維摩詰自ら念(おも)えらく、

「われ疾(やまい)の床に寝ぬ、世尊の大慈なんぞ

あわれみを垂れたまわざらんや」と。 

仏その意を知しめして、即ち舎利弟に告げたまわく、

「法行いて、維摩詰に詣(いた)りて疾(やまい)を問え」と。

舎利弗仏にもうしてもうさく、『世尊、我彼(われかしこ)に

詣って疾を問うにたえず。ゆえいかんというに、

憶念するに、我むかしかつて林中に於て樹下に宴坐しき。

時に維摩詰来って我に謂いて言わく、

「唯(いい)、舎利弗、必ずしも是れ坐するをもって

宴坐とはなさず。夫れ宴坐とは、三界に於て身と意とを

現ぜざる、是を宴坐となす。滅定より起(た)たずして而も

諸の威儀を現ずる、これを宴坐となす。道法を捨てずして

而も凡夫の事を現ずる、これ宴坐となす。心内に住せず、

また外に在らざる、足を宴坐となす。諸見に於て動ぜずして、

三十七品を修行する、是を宴坐となす。煩悩を断ぜずして

涅槃に入る、是を宴坐となす。

もし能くかくの如くにして坐する者ならば、

仏の印可したもう所ぞ」と。

時に我、世尊、是の語を説くを聞き、黙然として止みて、

報(こたえ)を加うること能わざりき。故に我彼(かしこ)に

詣(いた)って疾を問うに任(た)えず』と。

 

釈尊が、舎利弗尊者に「維摩居士の見舞いに行くように」と

依頼する場面です。

しかし、舎利弗尊者は座禅をしている時に、次のように

指摘されて返す言葉もなかったので、自分にはお見舞いに

行く能力はありません、と辞退されます。

『あなたがやっているような座禅のやり方で、

座禅は修行すべきものではありません。

真の座禅は、身体も心も三界の中にあらわれないように

座禅すべきものです。滅尽定に入ったままで、

しかも行・住・坐・臥があらわれているような座禅をしなさい。

すでに獲得した聖者としての姿を捨てない状態で、

しかも俗人の性格をもあらわす、というように座禅をしなさい。

あなたの心が、内にも外にもない、というように座禅をしなさい。

あらゆる謬見を捨てない状態で、しかも三十七菩提分の上にも

姿をあらわす、というように座禅をしなさい。

煩悩を断たない状態で、涅槃に入る、というように座禅をしなさい』

(『維摩経』長尾雅人訳注、中公文庫を参照)

 

煩悩を捨てることが出来たら、菩提に達するというのが

一般的な考え方かと思います。

しかし、「煩悩即菩提」といって、煩悩と菩提の本体はいずれも

真如であって、真理の観点からすると煩悩こそがそのまま菩提に

ほかならないという仏教用語があります。

なかなか実感として感じるのは、難しいです。

維摩會で修行研鑽を重ねて、これを悟れるよう

努力したいと思います。

霊鷲山にある阿難尊者たちが瞑想したと伝わる洞窟(筆者撮影)