門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ24

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、第二章の「方便品」を、ご一緒に読んでいきましょう。

維摩詰の説法の続きになります。

 

「是の身は無知なり、草木瓦礫の如し。

足の身は無作(むさ)にして、風力の転ずる所たり。

是の身は不浄にして穢悪充ち満てり。

是の身は虚偽たり。

仮に藻浴衣食を以てすと雖も必ず磨滅に帰す。

足の身は災たり、百一の病悩(わずらいなやみ)あり。

是の身は丘井(くじょう)の如し、老の為に逼(せ)めらる。

この身には定(さだめ)無し、要(かなら)ず当に死すべきたり。

是の身は毒蛇の如く、怨賊(あだびと)の如く、空聚(くうじゅ)の如し、

陰(おん)・界(かい)・諸入(しょにゅう)の共に合成する所なり。」

 

 

 

「陰(おん)」とは、五蘊(ごうん)を指します。

五蘊とは五陰(ごおん)ともいいます。

「蘊」は「集まり」という意味です。

五蘊とは、色蘊(物質的なもの)、受蘊(感情、感覚などの

感受作用)、想蘊(表象、概念などの作用。受蘊によって

感受したものを色、形などにおいて心で表象し、概念化するもの)、

行蘊(心の作用の総称で、特に意志をいう。潜在的形成力といわれ、

のちに果をもたらすもの)、識蘊(具体的に対象をそれぞれ

区別して認識する働き)を指します。

仏教では、すべての存在は、この五つの集まりと考えます。

「界(かい)」とは、六界を指します。

六界とは「六道」ともいいます。

すべての衆生が、その行為によって輪廻転生するという

六つの世界のことで、天道、人(間)道、修羅道畜生道

餓鬼道、地獄道をいいます。

「諸入」とは、十二処を指します。

十二処とは「十二入」ともいいます。

心や心の働きを生じさせる拠り所のことです。

眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と、それぞれに対応する

色・声・香・味・触・法の六境から成ります。

維摩居士は、この身は、五陰・六界・十二入が共に

合成する所、要するに実体の無い虚しいものだと

力説されているわけです。

 

(参考資料:コトバンクほか)

インドの夕陽(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ23

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、第二章の「方便品」を、ご一緒に読んでいきましょう。

 

長者維摩詰は、かくの如き等の無量の方便を以て

衆生を饒益しつ。

其れ方便を以て、身に疾(やまい)有るを現ずるや、

其の疾を以ての故に、国王・大臣・長者・居士・婆羅門等、

及び諸の王子、ならびに余の官属無数千人、皆往いて疾を

問えり。

  其の往ける者に、維摩詰身の疾にちなみて広く為に

法を説けり。

  「諸の仁者よ、是の身は無常にして、強きこと無く、

力無く、堅きこと無く、速に朽つるの法にして、

信ず可からざるなり。苦たり、悩たり、衆の病の集る所なり。

諸の仁者よ、かくの如きの身は、明智の者のたのまざる所なり。

この身は聚沫(しぶき)の如し、撮摩(きら)う可からず。

是の身は泡の如し、久しく立つことを得ず。

是の身はかげろうの如し、渇愛より生ず、この身は芭蕉の如し、

中に堅(かたさ)有ること無し。

是の身は幻の如し、顚倒より起る。是の身は夢の如し、

虚妄の見たり。

是の身は影の如し、業縁より現す。是の身は響の如し、

諸の因縁に属す。

是の身は浮雲の如し、須臾にして変滅す。

足の身は電(いなづま)の如し、余念に住(とどま)らず。

是の身は主無し、地の如きたり。是の身は我無し、火の如きたり。

この身は寿無し、風の如きたり。

是の身は人無し、水の如きたり。是の身は不実なり、四大を家となす。

是の身は空たり、我・我所を離る。」

 

維摩居士が、肉体に執着することの虚しさをこんこんと説く場面です。

「顚倒」とは仏教用語で、真理に反する誤った見方のことです。

「虚妄」とはそらごと、ウソのことです。

私は、維摩會(春秋館)で、いま唯識を学んでいますが、

唯識では、主観と客観を別々のものと捉えてしまうことを

「虚妄分別」と説いています

ヴァイシャーリにある石碑(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩會(春秋館)で参禅ライフ22

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、第二章の「方便品」を、ご一緒に読んでいきましょう。

 

    若し博奕(ばくえき)の戯処(けしょ)に至るも、すなわち似て人を度し、

    諸の異道を受くれども正信を毀(やぶ)らず、世典を明かにすと雖も

    常に仏法を楽(ねが)い、一切に散せられて供養中の最と為る。

    正法を執持して諸の長幼を摂し、一切の治生諧偶(かいぐう)して、

    俗利を獲(う)と雖も似て喜悦せず。諸の四くに遊びて衆生を饒益し、

    治政の法に入りて一切を救護す。

    講論の処に入りては導くに大乗を以てし、諸の学堂に入りては

    童蒙を誘開し、諸の婬舎に入りては欲の過(つみ)を示し、

    諸の酒肆に入りては能く其の志を立つ。

    若し長者に在りては長者中の尊として為(ため)に勝法を説き、

    若し居士中にありては居士中の尊としてその貧著を断じ、

    若し刹利に在りては刹利中の尊として教うるに忍辱を以てし、

    若し婆羅門に在りては婆羅門中の尊として其の我慢を除き、

    若し大臣に在りては大臣中の尊として教うるに正法を以てし、

    若し王子にありては王子中の尊として示すに忠孝を以てし、

    若し内官に在りては内宮中の尊として宮女を化政し、

    若し庶民にありては庶民中の尊として福力を興さしめ、

    若し梵天に在りては梵天中の尊として誨(おし)うるに勝慧を以てし、

    若し帝釈に在りては帝釈中の尊として無常を示現し、

    若し護世(ごせ)に在りては護世中の尊として諸の衆生を護る。

 

維摩居士が、あらゆる人たちと交流して

教化していく様を表現した部分です。

「若し婆羅門に在りては婆羅門中の尊として

其の我慢を除き…」とあります。

バラモンの中でもバラモンとして尊敬されるのは、

我慢を除いているから」といった意味になります。

ここの「我慢」という言葉は、私たちが通常使う

「耐え忍ぶ」という意味の我慢とは違い、仏教用語です

(というか、現在使われる『我慢』は、元々はこの仏教用語

語源とする言葉です)。

ここで説く「我慢」とは、自分(我)を固定的な実体とみて、

それに執着する誤った見解をいいます。

また、そのような誤解から、自分は他者よりも偉いと思うような

驕った心をいいます。

乾期の尼連禅河(ネーランジャナー川) 筆者撮影

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ21

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

新年明けましておめでとうございます。

今年も『維摩経』第二章の「方便品」を、ご一緒に読んでいきましょう。

 

仏の威儀に住して、心(こころ)大なること海の如し。

諸仏ほめたたえ、弟子・釈・梵・世主の敬う所なり。

人を度せんと欲するが故に善方便を以て毘耶離に居す。

資材無量にして諸の貧民を摂し、奉戒清浄にして諸の毀禁(きこん)を摂し、忍調の行を以て諸の恚怒(いぬ)を摂し、大精進を以て諸の懈怠を摂し、一心禅寂にして諸の乱意を摂し、決定の意を以て諸の無智を摂す。

白衣為りといえども沙門清浄の律行を奉持し、居家に処すといえども三界に著せず、妻子有ることを示せども常に梵行を修し、眷属有ることを現ずれども常に遠離を楽(ねが)い、宝の飾を服くといえども而も相好を以て身を厳り、また飲食すといえども而も禅悦を以て味となす。

 

ここでは維摩居士の素晴らしさが述べられています。

心は海のように広大。

多くの財産を持つが、貧しい人に分けてやり、

ならず者や怠惰な者たちに仏道を説く。

俗世に生き、家族や財物もあるけれど、それらに執着しないのが

維摩居士であると述べられています。

「懈怠(けだい)」とは仏教用語仏道修行に励まないことや怠りなまけることを意味します。懈怠は六大煩悩の一つ、あるいは二十随煩悩の一つとして数えられております。

 

参考資料:ブリタニカ国際大百科事典

スジャータの村(筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ20

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それでは、今回から第二章の「方便品」を、ご一緒に読んでいきましょう。

 

爾(そ)の時、毘耶離の大城(まち)の中に長者あり、維摩詰(ゆいまきつ)と名く。すでに曾て無量の諸仏を供養して深く善本を植え、無生忍を得て、弁才無礙なり。神通に遊戯して諸の総持におよび、無所畏を獲て魔の労怨(わざわい)を降し、深法門に入り、智度に善くして方便に通達す。大願成就して、衆生の心のねがいを明らかにし、又能く諸根の利鈍を分別す。久しく仏道に於て心已に純淑(もっぱら)にして、大乗を決定し、諸有(あらゆる)所作をなさんとして、よく思量す。

 

「毘耶離」とはヴァイシャーリーという街の名前です。

この地は、釈尊御在世の時代、ガンジス河北岸に栄えた国でした。

現在、ヴァイシャーリーで有名な遺跡が、下の写真の僧院跡の遺跡です。

 さて、ここでようやく『維摩経』の主人公・維摩尊者が登場します。

維摩尊者は、古代インドの富豪で、お釈迦様の在家の弟子となったと

いわれています。

サンスクリット語では「ヴィマラキールティ」という名で、

ヴィマラとは「清らかな」「清浄」という意味、

キールティは「ほまれ」という意味です。

維摩尊者は、「塵芥の中で清浄に生きる在家修行者」の姿を

象徴的に描いた存在といえます。

ヴァイシャーリーにある遺跡(筆者撮影)



 

参考資料:維摩会ホームページ

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ19

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

 

一切の大衆、未曾有なりと歎じつ、而も皆、自ら宝の蓮華に坐せるを見たり。仏舎利弗に告げたまわく、「汝且(しば)らく是の仏土の厳浄なるを観たるや」と。

舎利弗言さく、「唯(いい)、然り、世尊、かくのごときは本(もと)見ざる所、本(もと)聞かざる所なるを、今仏国土の厳浄悉く現ぜり」

仏舎利弗に語りたまわく、「我が仏国土の、常に浄きことかくのごとし、ただ斯の下劣の人を度せんと欲するが為の故に、是の衆悪不浄の土を示すのみ。たとえば諸天の宝器を共にして食するも、其の福徳に随いて飯色に異あるが如し。是の如く舎利弗、若し人心浄ければ便ち此の土の功徳荘厳を見るべし」と。

仏此の国土の厳浄を現したもう時に当って、宝積の将いる所の五百の長者の子、皆無生法忍を得、八万四千の人皆阿褥多羅三窺三菩提心を発せり。仏神足を摂(おさ)めたまえば、是に於て世界還復すること故の如し。

声聞乗を求むる三万二千の天及び人、有為の法は皆悉く無常なりと知って、塵(けがれ)を遠ざかり垢(よごれ)より離れ、法眼浄を得たり。

八千の比丘は諸法を受けず、漏(けがれ)尽きて意(こころ)解(さと)りき。

 

今回で、いよいよ「仏国品第一」のクライマックスを迎えます。

舎利弗尊者は、「なぜ仏国土なのに、汚れているのか?」と

疑問を持ちました。

それに対して、釈尊は「素質の劣った人たちを救うために、

多くの悪に満ちた不浄のこの国土を示現しているに過ぎない

例えば、諸々の天人が一つの宝器で共に食事をしても、

彼らがそれぞれの福徳に従って、ご飯の色がそれぞれの天人によって、

異なるように見えるようなものである。

このように、もしも人の心が清ければ、

この国土が素晴らしく飾られているのを見る」と仰ったのです。

 

その人の持つ徳の高低によって、世界の見え方が変わるということでしょう。

「心清ければ、即ち仏国土清し」とは、まさに心次第ですべてが変わる

ということではないかと思います。

次回から、「方便品第二」を読んでまいりましょう。

ペットボトルのゴミ(インドにて 筆者撮影)

 

門前の小僧、『維摩経』を読む  維摩会(春秋館)で参禅ライフ18

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

 

舎利弗よ、衆生の罪の故に如来の仏土の厳浄なるを見ざるまでにて、如来の咎には非ざるなり。舎利弗よ、衆生の罪の故に如来の仏土の厳浄なるを見ざるまでにて、如来の咎には非ざるなり。舎利弗よ、我がこの土は浄けれども、而も汝は見ざるなり」と。

爾の時、螺けい梵王、舎利弟に語るらく、「この意を作して、此の仏土をおもうて似て不浄たりと為すことなかれ。所以何となれば、我れ釈迦牟尼仏の土の清浄なるを見ること、たとえば自在天宮の如し」と。

舎利弗言く、「我れ此の土を見るに、丘陵・坑坎・いばら・小石・土石・諸山・あくたも満たされたり」と。

螺けい梵言く、「仁者心に高下有りて仏の慧に依らざるが故に、此の土を見て不浄たりと為すのみ。舎利弗、菩薩は一切衆生に於て悉くみな平等にして、深心清浄なり。仏の智慧に依れば、則ち能く此の仏土の清浄なるを見るべし」と。

ここに於て仏、足の指を以て地をおしたもうに、即時に三千大千世界、若干百千の珍宝をもて飾らるること、たとえば宝荘厳仏の無量功徳宝荘厳土の如し。

 

「三千大千世界」とは、仏教の世界観による広大無辺の世界を指します。

須弥山を中心に日・月・四大州・六欲天梵天などを含む世界を「一世界」とし、

これが千集まったものを「小千世界」といいます。

「小千世界」が千集まったものを「中千世界」といいます。

「中千世界」が千集まったものを「大千世界」といい、

これらを総括した世界を「三千大千世界」といいます。

(参考資料:小学館デジタル大辞泉

スジャータ村(セーナ村)のストゥーパ(筆者撮影)