門前の小僧、『維摩経』を読む 維摩会@春秋館にて参禅ライフ9

仏と菩薩と聖声聞と独覚との過去現在未来のすべてに礼拝し奉ります。

それでは、一章の「仏国品」の続きを、ご一緒に読んでいきましょう。

 


ここに於て長者の子宝積、即ち仏の前に於て、偈を以て頌(とな)えて曰く。

「目は浄くして修広なること青蓮の如く、心は浄くしてすでに諸の禅定をわたり、

久しく浄業を積んでみな無量なり。もろびとを導くに寂を以てしたもう故に

稽首したてまつる。

既に見る大聖神変を以て、普く十方無量の土を現じたまい、その中の諸仏法を

演説したもうを、ここに於て一切悉く見聞す。法王の法力群生に超え、

常に法の財を以て一切に施し、善く諸の法相を分別し第一義に於て動ぜず。

すでに諸法に於て自在を得たまえり。是の故に比の法王を稽首したてまつる。

法有ならず亦無ならず、因縁を以ての故に諸法生ず。

我無く造無く受者無けれども、善悪の業亦亡びずと説きたもう。

始め仏樹に在して力魔を降し甘露の滅を得て覚道を成したまえり。

すでに心意無く受行無し。而も悉く諸の外道を推伏し、三たび法輪を大千に

転じて、其の輪本来常に清浄なり。天人道を得たる、比を証となし、

三宝是に於て世間に現ず。斯の妙法を以て群生を済い、ーたび受けて退せず

常に寂然たり。

老・病・死を度する大医王、当に法海の徳無辺なるを礼すべし。

毀誉に動ぜざること須弥の如く善と不善とに於て等しく慈(いつくしみ)を以て

したもう。

心行の平等なること虚空の如し。たれか人宝を聞いて敬承せざらん。

今世尊に比の微蓋を奉るに、中に於て我が三千界諸天・龍神居る所の

宮の乾婆等及び夜叉を現じ、悉く世間の諸の所有を見たり十カ哀んで

是の化変を現じたもう。

衆は希有なるを観て皆仏を欺じたてまつる。今我も三界の尊に稽首しまつる。

大聖法王は衆の帰する所、心を浄くして仏を観たてまつるに欣ばざるはなし。

おのおの世尊の其の前に在すを見る。斯れ即ち神力不共の法なり。

仏一音を以て法を演説したもうに、衆生その類に随っておのおの解を得、

皆おもえらく世尊其の語を同じゅうしたもうと、斯れ別ち神力不共の法なり。

仏一音を以て法を演説したもうに、衆生各各解(かくかくげ)する所に随うて、普く受行することを得て其の利を獲る。斯れ即ち神力不共の法なり。仏一音を以て法を演説したもうに、或は恐畏する有り或は歓喜するあり。

或は厭離を生じ、或は疑を断ず。

斯れ則ち神力不共の法なり。

十カの大精進を稽首し、既に無所畏を得たまえるな稽首しまつる不共の法に住したまえるを稽首し、一切の大導師たるを稽首しまつる。

能く衆の結縛を断じたまえるを稽首し、已に彼岸に到りたまえるを稽首しまつる。

能く諸の世間を度したまえるを稽首し、永く生死の道を離れたまえるを稽首しまつる。

悉く衆生来去(さまよい)の相(すがた)を知り、善く諸法に於て解脱を得たまえり。

世間に著せざること蓮華の如く、常に善く空寂の行に入る。

諸法の相に達して罣礙無し。空(みそら)の如く所依なきを稽首したてまつる」と。

 


以上が裕福な良家のラトナーカラ(宝積)菩薩が釈尊を讃える偈です。

インド門(ニューデリー